料理の写真をおいしそうに補正するサービスを初めて使ってみた。ののワさん。
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そして、「個性」というものが「一般的なものからはみ出したもの」であるのなら、「ブス」は個性なのである。しかし、「ブスは個性だ」と言われて喜ぶ女だって、一人もいないだろう。それを言われて安心する女だって。
「ブス」と言われて傷ついた女の子に、「いいじゃないか、それが個性なんだから」と言っても、救いにはならない。「気にするんじゃない」と言っても救いにはならない。「ブス」と言われた女の子は、そのことによって、「ブス」という救いのない一般性の中に放り込まれているだけなのだ。「ブス」と言われて傷ついた女の子には、「どうして?愛嬌のある顔してるのに」とか、「どうして? 意志的なしっかりしたいい顔してるのに」と言ってやらなければ、救いにはならない。それを言われて、女の子は「やっぱり自分は美人じゃないんだ」と思うかもしれない。その点では、やっぱり傷つくかもしれない。しかし、その一方で救われてもいる。「愛嬌のある顔をしている」とか「意志的なしっかりした顔をしている」と言ってくれる相手は、「ブス」と言って拒絶する人ではないからだ。
それを言う人は、「あなたの顔は、これこれしかじかの顔」と言って、「一般的な女の子の容姿の基準からはみ出した」とされて「ブス」というゴミ箱に投げ捨てられているものを、「そうではない」として、明確に位置づけているのである。だから、「自分は拒絶されてはいない。なんらかの存在理由はある」と思うことによって、ブスと呼ばれた女の子は、「個性」への道を辿る。つまり、「個性の認定」は「ゆるし」なのである。「ゆるし」によって救われるものなのだから、個性とはそもそも「傷」なのである。
橋本治『いま私たちが考えるべきこと』新潮文庫 p.211-212
この世の中、うわごとのようにくりかえされることばが多いですよね。気持ちはなく、ことばだけがつい口からでるという。たとえば、「たいへんだねー」とか「いいねー」とかいうこと。あと、もっと具体的にいろいろとさ。
うわごとに対しては、びんかんでいよう。あっ! これは、うわごとだと気づいたら、そのように対しよう。うわごとに傷つけられないようにしよう。
銀色夏生『つれづれノート2』角川文庫p.123
そういえば、しあわせそうに結婚して、かなしそうに別れていった人たちを、大人になるほどたくさん見るようになる。ここにも、大人と若者の違いは出るなと思う。20歳くらいの時は、結婚したところとか別れたところとかのどちらか一方しか見てないことが多いけど、もっと年上になると、同じ人の結婚と別れを見ることが多くある。そういうのを見るにつけ、結婚する時はあんなに幸せそうだったのになーと思う。すると、たとえ今、しあわせそうな人でも先はわからないと思ってくる。だからよく大人の人が若い人に、今がいちばんいい時だからとか言うんだな……それは経験からくる言葉なんだろうけど、だとしても若い人からしたら、いい時ならいい時を100%楽しめばいいのだから、先の不幸を言わないでほしいと思う。現実というものは、だれでも実際に体験して、それぞれに身につけていくことだから、たとえそれがおおむね真実に近いことだとしても、夢をこわすようなこと、大人の人は子どもに言わないことが礼儀のような気がする。
(銀色夏生『つれづれノート2』角川文庫 pp.20-21)
いつか日本は、戦争のうずにまきこまれていた。ぼくの身のまわりも、だんだんきびしくなって、ゆめのような思い出などは、消しとんでしまった。戦争はますますはげしくなって、ぼくの父も出ていった。そして、空襲がはじまるころ、船といっしょに南の海に沈んだ。
町は焼かれ、人は目ばかり光らせていた。ぼくは、のっぽな中学校の上級生となり、工場につれていかれた。油だらけになってはたらいているうちに、学校も焼けてしまった。
毎日が苦しいことばかりだったが、また底ぬけにたのしかったような気もする。家が焼けたことを、まるでとくいになって話しあったり、小型の飛行機に追いまわされて、バリバリうたれたりするのが、おもしろくてたまらなかったりした。これは命がけのおにごっこだったが、中にはおににつかまってしまう、運のわるい友だちも何人かあった。いまになってみれば、ぞっとする話だ。
(佐藤さとる『だれも知らない小さな国』講談社青い鳥文庫p.44)
私は性慾に駆られてこの線の手前まで来て、これさえ越えれば望むところの性慾の満足を得られると思いながら、この線が怕ろしくて越えられなかったのだ。越えたくなくて越えなかったのではなくて、越えたくても越えられなかったのだ。その後幾年か経って再びこれを越えんとした時にもやっぱり怕ろしかったが、その時は酒の力を藉りて、半狂気になって、漸くこの怕ろしい線を踏越した。踏越してから酔が醒めると何とも言えぬ厭な気持ちになったから、又酒の力を藉りて強いて纔にその不愉快を忘れていた。こんな厭な想いをしてまでも性慾を満足させたかったのだ。これは相手が正当でなかったから、即ち売女であったからかというと、そうでない。相手は正当の新婦と相知る場合にも、人は大抵皆そうだと云う。殊に婦人がそうだという。何故だろう?
(二葉亭四迷『平凡』新潮文庫 p.93)