そして、「個性」というものが「一般的なものからはみ出したもの」であるのなら、「ブス」は個性なのである。しかし、「ブスは個性だ」と言われて喜ぶ女だって、一人もいないだろう。それを言われて安心する女だって。
「ブス」と言われて傷ついた女の子に、「いいじゃないか、それが個性なんだから」と言っても、救いにはならない。「気にするんじゃない」と言っても救いにはならない。「ブス」と言われた女の子は、そのことによって、「ブス」という救いのない一般性の中に放り込まれているだけなのだ。「ブス」と言われて傷ついた女の子には、「どうして?愛嬌のある顔してるのに」とか、「どうして? 意志的なしっかりしたいい顔してるのに」と言ってやらなければ、救いにはならない。それを言われて、女の子は「やっぱり自分は美人じゃないんだ」と思うかもしれない。その点では、やっぱり傷つくかもしれない。しかし、その一方で救われてもいる。「愛嬌のある顔をしている」とか「意志的なしっかりした顔をしている」と言ってくれる相手は、「ブス」と言って拒絶する人ではないからだ。
それを言う人は、「あなたの顔は、これこれしかじかの顔」と言って、「一般的な女の子の容姿の基準からはみ出した」とされて「ブス」というゴミ箱に投げ捨てられているものを、「そうではない」として、明確に位置づけているのである。だから、「自分は拒絶されてはいない。なんらかの存在理由はある」と思うことによって、ブスと呼ばれた女の子は、「個性」への道を辿る。つまり、「個性の認定」は「ゆるし」なのである。「ゆるし」によって救われるものなのだから、個性とはそもそも「傷」なのである。
橋本治『いま私たちが考えるべきこと』新潮文庫 p.211-212